《新春座談会》

テーマ 『総合的な学習の時間をどう進めるか』

                     教科の枠を超えた新しい教育                

                              

                              出席者  

                東京学芸大学名誉教授           佐島群巳氏

                東京都板橋区立稲荷台小学校教諭    小堂  十氏

                千葉県印旛郡白井町立大山口中学校   善財 利治氏

 


 新学習指導要領の中で注目されている「総合的な学習の時間」。2002年から本格的に実施されることになるが、学校現場には戸惑いも多い。そこで、環境教育を中心に研究を進めている東京学芸大学名誉教授佐島群巳氏を囲み、現場の教師陣に総合的な学習とは何か、またどのようにカリキュラムを作っていったらよいのかについて話してもらった。

 

◎なぜ今「総合的な学習の時間」なのか

 佐島   文部省は今度の「総合的な学習」については、内容も方法も具体的に示していません。これは総合的な学習がそれぞれの学校、それぞれの地域の教育委員会を含めて、特色ある教育課程を作らなければならないということの指示ではないかと思います。文部省の規制された、拘束されたカリキュラムと違って、自由かつ創造的なカリキュラムを作ってよろしいということですが、「どのようにカリキュラムを創ればいいのか」という現場の悩み、「総合的な学習により学力が落ちるのではないか」という保護者の疑問があります。そこで「今、なぜ、総合的な学習が必要なのか」「総合的な学習についてどう考えているのか」お話しください。

 善財   総合的な学習の柱の中に環境というのがありますが、環境教育をやっていこうとする場合に、たとえばゴミの問題についていろいろ思っていることを書かせますと、多くの疑問点があがります。社会科だけでは収まらないような、人体の有害性や自然科学的な内容など多岐のものに触れていくことになります。ですから、このような現代的な課題を生徒が追究するにあたっては、総合的な学習をやることは重要になってくると思います。

 佐島  仮に環境というものをとった場合、どの教科にも幅広く関わってるものだし、それだけに環境問題を教育的な課題や内容として扱えば、あらゆる学習領域の内容と方法が十分生かされなければいけないという意味で、総合的な学習の意味があるのですね。

 小堂   生きる力や主体的に考える力が求められているわけですが、今まで教科の枠があった時は、子どもたちに興味・関心があっても、教科の枠のために手を出せないというところが学校教育の中であった気がします。子どもたちの中から学習課題が出たとしても、「それは社会じゃないんじゃないの」とか「それは特活だよ」という形で、今までセパレートしていたところがあったように思います。そこで、今回の指導要領では、子どもたちから生まれてきた課題に対して主体的な関わりや生きる力、社会の変化に対応する力を育てていくために総合的な学習ができたのではないかと思います。
 

 佐島   教科の枠を超えるというお話がありましたが、教科の枠を超えるということは、これまでの学校のやり方とは随分違うやり方になってくるわけですね。では、学校というのはどう変わらなければなりませんか。

 善財   中学校は教科担任制ですので、教科については教員間で聖域となっていまして、お互い干渉しないという意識があります。しかしこれが変わっていかなければ、総合的な学習は今後成り立たないのではないかと思います。

 佐島   教科の枠を超えるというのは、共通の社会的課題を教員同士がお互いに交流しあって、より生徒の認識の仕方を行動化したり、授業をスリム化したりすることができるという意味があるわけだね。本来人間というのは一人の人間が学習するものです。物理でエネルギーを扱う場合と社会科で石油を扱う場合、家庭科の調理でエネルギーを扱う場合がありますが、エネルギー概念というのはバラバラにやってるけど、生徒の頭の中では実は統合されているのです。本来そうであるにもかかわらず、教科でセパレートにして、教科の枠で固めてそれをつなげようとする先生方の頭の硬さというのがありました。総合的な学習は先生方の柔らかい頭脳が必要となってくるし、また教科を広い立場から見ていかなければならないでしょう。つまり生徒の側から教科構造を考えてみるという意味ですよね。

 

◎開かれた学校へ

 佐島   総合的な学習には教科とは違って学校が開かれていくという意味がありますが、これについてはどう考えますか。開かれた学校に総合的な学習が持つ意味は大きいと思いますが。

 小堂   総合的な学習を進めるには、それぞれの地域の独自性、学校の特徴を十分に生かしていくことが大切になってきます。その地域の中に学校があるのだから、子どもたちが総合的な学習を実践するにあたっては、地域を見て触れて関わっていくことがなければ総合的な学習が成り立ちません。その意味からも、やはり地域に開かれた学校というのは重要な要素を持っていると考えます。

 佐島   総合的な学習は従来型の指導書、教科書があれば授業ができるという教科型のものでなく、地域の人たちの協力を得たり、教科の先生との協力があったり、T・Tがうまくできないと成立しないといえますね。では、総合的な学習には国際理解教育、情報教育、環境教育、福祉教育、健康教育と5つのテーマがあるわけですが、各学校が並列にこれらテーマをやっていったらどうなるかと心配しています。小学校3・4年生が105時間、5・6年生が110時間、中学生が70〜130時間ですが、この時間内に全てのテーマを消化すると、とても小刻みなものしかやれなくなるでしょう。もう少し大きい括りにしておいた方がいいのではないかと思います。環境と国際理解をクロスして「環境・グローバル教育」、健康と福祉を統合して「命・人権教育」というようにした方がやりやすいんだと思います。

 善財   環境教育というと身近な地域の実践が多いですが、地球的規模の環境問題も扱うべきだと思います。私は今まで、環境教育とグローバル教育を結び付ける授業を行ってきました。例えばアメリカの先住民族であるイヌイットが、天然ガスを先進国に輸出することで自主政府の財源としていくという現代的な課題に取り組みました。イヌイットの先住民族的な環境倫理とグローバルな彼らの今後の発展ということを考える授業です。グローバルと環境を重ねるというと、世界地理的なことしかないのかと思われがちですが、実は私たちの生活の中にもあらゆるものが、世界中と結びついています。私たちの着ているもの、食べるものあらゆる物が世界中との結びつきが強いものです。ですから私たちの生活や地域を教材化することも世界とつながっていくことであると思います。

 佐島   グローバル教育と環境教育は切っても切れない関係であるということですね。では、生命、人権、福祉を統合して教材を作ったら合理的だと思うのですが、小学校の立場からこの事についてお聞かせください。

 小堂   老人ホーム交流会の実践では、もともとは子どもが自分たちも何か社会に役立つことができればという考えから「自分たちがしてあげる」という立場で考えていたようでした。それが実際に行ったことで、老人たちがいて今の自分たちがいるんだという思いが生まれてきました。子どもたちは、それまでは自分と老人というものを別々のものと捉えていましたが、お年寄りがいて自分たちがいるという共生や生命の連続性というものに気がついた時、尊厳性や生きていることの素晴らしさや自分たちの先輩に対する畏敬の念というのも生まれてきたような気がしました。

 佐島   命の教育として「生きる力」の根元は、自分の命をどう維持するか、自分の命を維持することは他人の命も大事にするということにつながってくるわけですね。ですから福祉教育や健康教育はそういう両者の関わりについて理解を深めながら人に対しての思いやりや社会的モラル、生命倫理というものに目を開かせるために必要な教育だと思います。健康と福祉も切っても切れない関係にあるようです。バラバラにやらない方がむしろ自然ではないですか。総合的な学習を合理的に行うにはそれぞれの学校の特色を生かして、しかもできるところからやらなければならないということですね。では総合的な学習のカリキュラムを作るにはどうしたらよいかというのが課題になってきますが、総合的な学習の授業作りの基本的な考え方は、まず「子ども先にありき」で、興味や関心を示して子どもが積極的に、主体的に、問題解決に取り組めるような授業作りにするにはどうしたらよいですか。

 小堂   教師の在り方論になってくるかもしれませんが、ある意味で教師自身が社会参加、地域参加のモデル的な要素や気持ちを持っていなければならないと思います。学校現場にいると、どうしても学校は学校、地域は地域というところがあります。しかし地域の人やものを知っていけばいくほど地域には、子どもたちの学習に生かせるものがたくさんあることを痛感しました。

 佐島   素材があるということですか。

 小堂   人材も素材もたくさんあるということです。そこを見ていくことで、今まで気づかなかった地域のよさや特徴、逆にその地域の問題も見えてきます。そういうことも見えてくる中で、それぞれの地域、学校独自のものが見えてくるのではないかと思います。

 佐島   経済同友会の提唱では「学校から『合校』へ」という考えが上げられていますが、いくつかの学校が一つにまとまって基礎的な学習をしたらどうかというものですが、そういうこともできるかもしれませんね。性や生命倫理を気づかせるには、言葉でなく体得しなければならないのです。ふれあいながら、自分で汗を流しながら、そして相手の心に思いやりを持った活動を通して倫理観というのは生まれてくるのです。それには繰り返し何度もやらなければならないのです。

 小堂   老人ホームには、同じ学年で2度訪問しました。子どもたちにとって勉強になったのは1回目より、2回目に訪れた時でした。やはり1回目は「いいことしたな」という自己満足だけなんですが、2回目は心の交流もありました。

 善財   一度だけ楽しませてくれて、二度と会えないというのではなく、4か月おきくらいに必ず行くという形であれば、老人たちにも、生きる力を与えることになるのではないでしょうか。

 

◎学力は向上するのか


 佐島  総合的な学習は学力が低下するのではないかといった心配があります。私は低下するどころかむしろ上がっていくのではないかと思うのですが。

 善財  地球環境ブームというのが数年前にありましたが、そのブームが下火になってくると、地球環境問題が単なる物知り知識になってしまっているという状況が見られました。環境への危機が叫ばれてはいたものの、子どもたちの生きる力にはならずに地球環境問題物知り博士を作っただけだったんです。そういったことに陥らないように、子どもたちが自分自身の問題として、環境問題に取り組めるような総合的な学習をやっていきたいと思います。

 小堂  学校教育の中には子どもありきではなく、まず教科でこのことを教えなければならないという面がありました。しかし、子どもたちが自分ありきでやることによって、まず自分があってこんなことをやっていきたいとか達成していきたいという学ぶ姿勢は吸収力が違ってくると思います。今までと同じ学力を求めるのであれば違うかもしれないですが、やはりこれからの子どもたちは変化に対応できるような力が必要となってきます。「生きる力」が、これからの学力になってきますから、それには総合的な学習のような柔軟に子どもの思考に対応できる学習カリキュラムはとても重要になってくると思います。

 善財  学力低下という批判は、知識量が減るのではないかということだと思うのですが、例えば環境問題を何とかしようという総合的な学習をやれば、環境破壊の指標を測定する力も必要ですし、それが起きている社会の仕組みを考え、改善方法を考える力が必要になってきます。また社会の仕組みに思いをはせるには相当量の知識を獲得することが伴わなければなりません。ですからおのずから自然科学的な知識も、社会科学的な知識も必要になってきます。そして単なる知識を覚えこむ学習ではなく、集めて頭に入れて即使って解決方法を考えるという学習の方が、生きる力になっていくのではないでしょうか。

 佐島  教科の内容に即した知的能力、思考力が身についたとしても、それは教科の枠にしか生きてこない。総合的な学習というのは、自らの課題と同時に21世紀に生きるために必要な社会的テーマに向かって主体的に、しかもみんなと協力しながら追求するという面では教科とは違った学力というものが身についてくるのです。環境問題と福祉問題については、直接それに触れることによって驚きや自分の思いとは違うことに、はっと気づいていくという段階があるわけですね。そういった感性や関心が生まれるからこそ、自分がどうしたらよいかという主体的に関わる姿勢が出てくる。問題を追求する姿勢が出てくるのです。この点は教科教育では得られないことです。これを通して、自分で調べる力が身につくというのは、実は総合的な学習でみんなで創り出すという共同する力、積極的に社会に貢献する力というものを総合的な学習は期待できるのではないかと思います。

 

 ◎求められる教員の資質

 佐島  最後に、総合的な学習を創っていく教師はこれからどうなったら良いのでしょうか。
     善財 中学の教師には、生徒指導を協力してやり遂げていくという気概と、チームとしての強さがあります。また行事をやり遂げる力強い結束力があります。今後はその力を教科間の共同総合的な学習の方に向けていくことが重要です。その力が空回りしないためには、総合的な学習について現職研修の充実が必要になるのではないでしょうか。
 

 小堂  今までの日本の教育は、どこの学校も同じようなものでしたが、総合的な学習によって学校の独自性が出てくるということを考えますと、まず教師が地域との関わりを持ちながら視野を広げていくことが重要だと思います。教師も一人の人間ですから、知ってること知らないこと、できることできないことという限界もあります。そういった時に生かされるのが、地域の人やものだったりすると思います。だから、まず、開かれた学校の中の開かれた教師になっていかなければならないと思います。

 善財  教師が柔軟な頭で、問題を発見する力を持たないと、総合的な学習は創っていけないと思います。

 小堂  当たり前と思ってしまえば当たり前になってしまうことを、鋭い視点で見られる目を持つことが大切です。

 佐島  これからは子どもが、どこでつまずいて、何をやりたいのかという子どもの願いがよくわかる教師でなければならないですね。そして教科では得られない新しい学力観を身につけるような柔軟なカリキュラムを創る資質が教師になくてはならない。それは学習指導要領に示された目標をそのまま受けるのではなく、地域の人と教育委員会、学校の先生と子どもによって創り出していくカリキュラムという発想を持っていなければなりません。そのために教師は広い視野に立って考えなければなりません。教育職員養成審議会が平成9年9月に答申を出しましたが、その3本柱の一つには「変化の時代に生きる社会人としての資質」が必要だと書かれています。これは問題解決力はさることながら、時代の変化に適応する知識や技能を持った資質が求められているということです。さらに地球的視野に立って行動する資質能力を持った教師が必要です。これからの社会をどう創っていくかという新しい価値観や認識を持ったカリキュラムを作れるような、今までと違う発想と認識と価値観を持って取り組んでいかなければならないでしょう。本日は長い間ありがとうございました。

(教育家庭新聞99年1月9日号)