教育家庭新聞・健康号
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私の体験談「子どもの心を考える」
不登校を越えて 前編
〜ありのままの自分で…〜
寄稿−大学生・Aさん

 〈喪失感から不登校に〉
 私は中学2年生の1月、父を白血病で亡くしました。それまでは2つ年下の弟と3人で遊びに出かける事が多く、父は学校であったことやちょっとした悩みなどをよく打ち明けられる存在でした。初孫でかわいがってもらっていた母方の祖父が心筋梗塞で亡くなったのはその1カ月前です。以前からフルタイムで働いていた母は父の入院が長引くにつれ、平日は会社、休日は病院という生活で、私も両親に心配をかけまいとできない家事をこなし、学校ではうまくやっていると振舞っていました。実際は部活内でのいじめ、クラス内では当時何かで流行っていた「俺、白血病だから〜」というような中傷を受けていることは到底言えませんでした。

 学校ではそれまで母の強い勧めで入っていたスポーツ系の部を辞め、念願であった吹奏楽部に転部、自主的に朝練をするなど担当になったクラリネットの練習に励みました。そこで父の葬儀からいろいろ気遣っていただいたのが顧問のG先生でした。ある日、音階のテストがあり、「あなたが一番正確にできていた。すばらしい」とみんなの前で褒められた時は、いじめで自信喪失し、父も失くして不安定な私には、努力が認められた、部活の一員としてやっていけるのだと、嬉しさの余りに泣き出しそうになるくらいでした。しかし、ようやく部活になれてきた2月、G先生が心筋梗塞で亡くなられたのです。私は心の糸がぷつんと途切れてしまったようで、父の葬儀の時にも泣けなかったのに、このとき初めて一人号泣しました。

 それでも、どうにか私は乗り越えられました。いえ少なくとも当時はそう信じていなければ、沸き上がる悲しみにどうしようもありませんでした。けれども、受験で部活動を引退した頃になると勉強は進まず、「どうせ死ねば意味がないのだから」などと考え始め、次第に学校に対して興味を持たなくなって、やがて、無茶な理由をつけ、母に心配かけたくない、心に介入してもらいたくないと、母が出かけるまで学校に行く振りをし、隠れて学校を休むようになりました。父が亡くなったことによって、家族関係はよりバラバラになり、食事を一緒にとっても会話はありません。私は母とどう接していいのか分からず、逃げていたとも言えました。3カ月間で去っていった人たちを思って涙したり、無気力になりました。

 〈初の精神科(心療内科)受診〉
 そんな中、やっとのことで希望の高校に受かると、私は家でパーティーを開いたのです。とにかく自分の辛さや寂しさを誰かにわかって欲しいと常々感じていたので、きっと誰かに助けを求めていたのですね。それは酷い騒ぎになり、以前から私の異変を感じていた母が翌朝精神科医へ私を受診させました。学校を休んでまで病院、しかも精神科なんてとても屈辱的に思いましたが、母や一緒に行った祖母にとってはいたたまれなかったのでしょう。体の不調は薬を飲んで治すことは知っていましたが、心を病んだらどうするのかということは無知でした。病気でもないのに薬を飲むなんて、健康だった私には全くありえないことでした。反発しながら薬を飲んだり飲まなかったり、一気に大量に飲んだり。何度目かのカウンセリングで、前向きなことを言うと薬の数が減ることを発見し、猫かぶりが得意な私は「もう大丈夫だ」ということをアピールしてそこの病院に行くことを止めました。誰にでも取り繕いばかり、いつの間にか本当の自分を見せることに恐怖を覚えていました。

 〈高校に入学して〉
 高校に入学したものの、あれほど好きだった吹奏楽部にも魅力を感じなくなってしまい、家ではやはり会話がなく、あってもすぐにケンカ腰になってしまう。そのうち、躁状態と鬱状態が極端に現われる事が増え、その反動で成績も落ち、私は学校を休むようになりました。制服を着て教科書を鞄に詰め、学校に行く振りを母に見せてから家を出ました。その後は近くの神社で母の車が出るのを見計らって、家にいる祖父(父方の)に「風邪で早退したから」と嘘をつき自室にこもりました。何をするのではなく、たまに鳴る電話におびえ、家にいた祖父が母に告げるのを恐れ毎日びくびくしていました。嘘は必ずばれるもので、数日後、担任から電話が来て母に知れました。完璧主義的な母にとって、「学校に行かないこと=悪」と激しく私を責めたてました。理由も聞かず(聞いたかもしれませんが、母に話す気も、話せる状態でもありませんでした)に責め立てるので、次第に自室に籠もるようになり、夏だというのに雨戸を閉め、ガラス戸から光が差してくるので重い本棚を動かし、完全に真っ暗な部屋で過ごすようになりました。今思えば、よくそんな体力があるなと感心してしまいますが、誰にも自分の心=部屋に踏み込ませないようにするため必死の防衛策でした。

 母子家庭にも関わらずに、高校に通わせてもらっているのに、私はなんて親不孝者なのだろう。考えれば考えるほど深みにはまって、ある日とうとう爆発してしまいました。こうして振り返ってみると、思春期に反抗できなかった反動が押し寄せてきたのでしょう。それに母のオロオロする姿がなぜか滑稽に思えて、嫌がることをたくさんしてしまいました。まだその母の姿が目に焼きついて離れません。まるで異様な生き物を扱うような母の怯えた目。弟にも八つ当たりし、家族でさえ遠い存在となってしまいました。私は自室の闇の中でようやく安堵の息をつきました。もう誰とも関わりたくない。将来も見えない。とても未来に対して希望など持てませんでした。

 しかし、一人でいたいのにも関わらず、人が恋しいのです。テレビや本の中の人物ではなく生身の人間と触れ合いが必要なのです。でも、外に出る勇気はなく、必要性も感じなかったので、日常生活というものを捨てました。お風呂に入るのも億劫で、母に入れてもらった時期もありました。自分が遠くの世界にいる王で現実感がなく、このままではいけないと自分が一番知っているのに、抜け出す方法が分かりませんでした。

 自分の居場所が家にないと悟ったとき、今度は外で探そうとしました。でも、学校がある昼間は出歩けない。そこで夜に家人が寝静まったあとに部屋を抜けて街をさまよいました。ある時は早朝に自転車で湖を一周したこともあり、自分で自分の衝動が抑えられなくなっていました。これで自分自身でもフツーじゃないことに気づき、学校の養護の先生にある心療内科を紹介していただきました。
次号後編につづく)


【2005年3月19日号】

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