教育家庭新聞・健康号
TOP健康号私の体験談「子どもの心を考える」   バックナンバー
私の体験談「子どもの心を考える」
不登校を越えて 後編
〜ありのままの自分で…〜
寄稿−大学生・Aさん

前編から 中学2年生の12月から3カ月間に祖父、実父、世話になった部活動の顧問と3人の死に接したAさんは、その喪失体験から精神不安定となり、高校1年生の初夏から不登校に。母親への反抗、ひきこもり、やがて夜間に部屋を抜け出したりするうちに自分でも心の異常に気づき、養護教諭に相談して心療内科を受診するようになった)


 〈ひきこもり〉
 心療内科を受診し始めてから、母は家にいることを許可してくれました。その頃のことはあまり覚えていません。気が付いたら自分のベッドに寝ていたり、病院の車椅子に乗っていたりということも度々ありました。毎日がダルくて、一日が終わって、母や弟が帰ってくるのを見ると、いたたまれなくて部屋にこもりました。家での生活は昼夜逆転の生活を送っていましたが、家訓みたいのがあって、「一緒に食事をとる」「朝は起きる」などということもあり、それには従うようにしていました。しかし、学校が始まっている日中は落ち着かず、勉強に置いていかれるという恐怖感はその頃にはもう皆無に近かったけれど、どこか後ろめたかったです。家族が帰ってきてようやく自分の好きなことができるという感覚がありました。夏休みになると、ようやく学校から開放された気がしました。ここで疲れがどっと出たのか、一人で日常生活を送ることがままならなくなったりもしました。

 そうこうしているうちに、見かねた祖母が「おばあちゃんの家で休養しよう」と気遣ってくれ、何日か滞在しました。祖母はしっかりとした早寝早起き派であったので、私も自然と昼夜逆転の生活から戻りました。日中は、祖母と一緒に手芸をしたり、畑を耕したり、朝の連続テレビ小説を見たりなどという生活は隠居生活のようで、さすがに焦りもありましたが。


 〈復学〉
 高校1年まで保健室登校は認められていましたが、その学校では2年からは授業に出なければ単位が取得できません。担任の先生の配慮で小学生の頃から割と親しくしていた友人と一緒になったクラスでしたが、輪に入ることができず、休み時間になるとすぐにトイレか保健室に逃げ込むようになり、授業中に突然泣き出しそうになったり、震えが止まらないといったパニック症状が現れるようになりました。いくら頭で理解していても身体がいうことをきかない。私の異変に気づいたクラスメートが声を掛けてくれたのですが、その度に保健室へ。すると、保健室はいつも私を暖かく迎えてくれ、学校にある私のもう一つの家みたいでした。保健室では別室の相談室でよく養護の先生と今後の策を練りました。好きな教科だったらパニックは出ないんじゃないかとか、2限のこの先生だったら出られるんじゃないか、家でのトラブルも交換日記を通して話せるようになりました。その交換日記は卒業するまでに4冊にもなり、私のかけがえのないものとなりました。


 〈アルバイト〉
 私なんかどこにも必要とされてない。これがいつも頭からこびりついて離れませんでした。そんなときに出会ったのが、接客業を主としたアルバイトでした。もう、家のお荷物的な存在はイヤだ。お金を稼ぐことによって自立したいと思い、たまたま母が近所で求人を見つけてきてくれた洋菓子店に履歴書を出しました。あれほど人が怖いと思っていた自分が接客業のバイトなんかできるのだろうか、どうせ長続きはしないだろうと見越していたのにもかかわらず、レジ打ちや品出しといった仕事が面白くて気が付いたら夢中になっていました。お釣りの取り違いや誤った敬語を使ったりと失敗も多く、何度となく叱咤を受けても、自分が社会に適応できているんだという満足感があって、素直に聞くことができました。仕事に慣れるにつれてパートの方や店長も私を頼りとしてくださったので、やりがいを感じました。ここでようやく自分が生かせる場所を見つけたのです。それに、何かに夢中になることで自信が再びよみがえってきました。ただ、たまにくる同年代のお客さんを見ると、面識はなくても急にどもってしまったり、おつりを間違えそうになったりしました。ここで、ようやく私は同年代の人に対する負い目があるのかもしれないとやっと気づきました。


 〈留年〉
 アルバイトは行けるのに、学校には行けない。やはり甘えが自分の中にあったのだと思いました。パニックはアルバイトでは出ないのですから。学校に復学していても、半年休んだブランクは大きく、1日に2時間出られればいい方でした。そんなペースですから、案の定単位は足りず、中退か留年かを余儀なくされました。通信制高校など新しい環境でやり直した方がいいのか、それとも、留年して年下の生徒と机を並べるか。悩んだ末、留年の道にしました。「うちの高校で留年して卒業した人はいない」と渋面する声もあったそうですが、かまわないことにしました。

 留年してもパニックも起こらずに、きちんと生活できるという保証は全くなかったですが、どうせ学年も違うし自分を偽る必要性もないことを学んだので、気にしないことにしました。幸いなことに新しいそのクラスには顔見知りがいて心強かったし、理解ある担任の先生の人柄もあって、私の留年デビューは成功しました。初めは敬語を使っていたクラスメートも次第に私を受け入れてくれて普通に接してくれました。そして、驚いたことにパニック症状もだんだんと回数が減り、落ち着いてきた証拠だと感じました。授業も、去年習った単元をもう一度勉強するので、余裕もありました。学校を休みがちだった日常から、学校へ毎日通うことの日常生活へと変わり、無事3年生に進級、そして卒業し、大学で勉強する今に至ります。


 〈振り返ってみて〉
 いろいろと回り道もしましたが、不登校をしたこと・引きこもっていたことを後悔はしていません。実際に自分が学校に行けなくなるなんて考えもしませんでしたが、それは避けられない道だったと思えます。あの時期に、自分自身を考えるいい機会にもなったり、違った世界が少しだけ見えた気がします。家族をはじめ、周りにはとても暖かく見守ってもらいました。話すとケンカ腰になってしまう母とは、手紙の交換などでやりとりをしたり、養護の先生とは交換日記でコミュニケーションを図りました。傍から見れば怠けているダメな奴と見えたかもしれませんが、見放すのではなく、周囲の見守る暖かい支えがあったからこそ、活路を見出せました。「がんばれ」とよく励ましを受けましたが、本当にツライ時には、この一言がトゲのように刺さりました。これ以上何をがんばるの?何に応じるの?難しいけれど、「元気か?」「あなたのペースでいいんだからね」などと、やわらかい声かけの方がずっと嬉しかったように感じました。

 今思うと、アルバイトで自信を取り戻したこと、留年で卒業できたことが私にとって大きな強みとなっています。自分の探していた居場所を社会でも学校でも見つけることができたから、変われたのだと思います。
(了)

ご意見、ご感想を。「健康号」編集部 kenko@kknews.co.jp


【2005年4月16日号】

新聞購読のご案内